ピカーン!な時2
みなさんこんにちは。
先週のピカーンな時に続き今週もその続き。
その前に。
夜って凄いよね!モノを作る時、絶対的に集中できるのが夜なように、
思考が変な感じになるというか。
最近、時間に余裕のある山口が小腹が空いた昨日の深夜、
炒飯を作ろうとしてできたのがこれ。
野沢菜の炒飯(カニ味)豚キムチがけ
なんだろうね、、、、。これ。
冷蔵庫にあった材料と、食べたいものが混ざったらこんな物に、、
野沢菜の炒飯のくせにカニ味だし。
夜はすごいなぁ。って思ったよ。
さて、
先週のピカーンな話。
おわかりいただけましたか?
早速メールをいただいたりしましたよ。
ある方のピカーン!は曲やライブだったり。
きっとそれぞれの時間と場所がかさなったところで出てくるのがピカーン!なんですね。
おもしろいなぁ!
「わかりますよ!」とメールをいただいたり、
その反面「わかんねーよ」という方もいると思うけど、
いつかこの話がわかるピカーン!が来るかもしれない。
そういうものだと思うんです。きっとね。
最近きたピカーン!の2つめ。
これはここ数年心の中に蓄積された言葉なんだけど、その中で、、、う〜ん。と
気になりながら、理解できずにいたこと。
もしくは、関係があるようにおもえるんだけど、その関係
が見つけられずにいたことなのです。
順を追っていくと、
風の谷のナウシカでの原作で
「世界を敵と味方に分けてしまうとすべてを焼き尽くすことになってしまう。」
坂本龍一の「skmt」で
「共生はあり得ない。」
「救いがないことが、救いだ。」(別の人の言葉)
キャシャーンのテーマソング(宇多田ヒカル)の最後の部分
「みんなの願いは同時にはかなわない。」
あとは、いろんな人達の話の中で出てくる、
「理解できない」ということ
なんか、つながっているようで、でもそこの関係が見いだせずにいたのです。
僕は、単純だから、言われたメッセージをかなり単純に受け取ってしまいます。
「あぁ、そっかそっか!」とおもいながら。
今回のピカーン!は宇多田ヒカルの「誰かの願いが叶うころ」
によって引き起こされました。
最初の感想は「うわ!言っちゃったよ!言い切った!」
僕は希望は希望としてあるものだと思っていたんです。
その逆もしかり、悪いものや憎むべき物もその形をもってあると思っていました。
「共生」や「願いが叶う」ということはやはり「良いこと」だと思う。
「希望」の塊な気がしてたのです。
でも、それだけではないんだな。というのがわかったというか、
認識できた気がするのです。
もしかしたら、希望がゆえに絶望にかわるかもしれない。と。
共生がありえる、としたら。
共生できる道をやっぱり考えるよなぁ。
でも実際、草も動物も殺さないと人間は生きて行けない。
同じ環境では生きて行けない。
でも、共生というのはやはり希望だと思う。
みんなの願いが叶うというのも凄く幸せな響きだけれども
いろんな関係が多いだけにそんな事がおこるとしたら
みんなが同じ願いを持っていて、結構特殊な環境にある状態でしかおこらないと思う。
それでも思いがけず迷惑を被っている人がいたりするんだろうな。
希望が希望である故に実現の為に頑張ってしまうし、
そのためなら正当化すらできてしまう。
でも、逆に考えた時。
希望が現実不可能となったときはどうだろうか。
その時、人は他の道を考えるんじゃないだろうか。と。
目の前にある、やっとできてきた道があるがために、
その道をさらに作ろうとしてしまう。
それはその道を希望として考えてしまっているからではないかな。
他の人からしてみたらそれは希望ではないのかもしれない。
共生やみんなの願いが叶う事があり得ないなら、
他のやり方があるかもしれないという問題提起。
実際、今まで希望としてきた物が、実はそんな物ではないと
気付いた時にやはり愕然としてしまう。
「じゃぁどうすればいいんだ!」と答えの出ない問いが
出てきて、動けなくなってしまうけれど、
なんとなくそこには新たな希望の匂いがする気がします。
色んな関係を考えながら「もしかしたらやっていけるかな?」と思うのです。
「僕の立場だと僕が正しい、君の立場だと君が正しい」
呪文の様に何度も何度も繰り返し言ってみるのです。
Yasuo Yamaguchi Presents [ 山口フォト]
All rights reserved by Yasuo Yamaguchi & SAKRA 2004