< さるというのは >
さるというのは、りんごをみたときにだけでてしまう、
「脳波」があるらしい。
ばななでも梨でも、うれしい!の反応はでるのだけれども
りんごだけはちょっと別格だそうです。
頭にたくさんのコードを貼りつけられたおさるが、
りんごをみて、檻の中をいったりきたりしている実験を
何年かまえにテレビでみたことがありました。
でも、よくかんがえてみると、あの実験だけでは
りんごを特別好きなのが、さる全般にいえることなのか
あのおさるの個人的なものなのかは、わかりませんね。
でも、ま、いいや。
わたしはただ、自分のはかりしれないところ(脳波)で、
じぶんの「好き」の微妙な度合いが
はっきりとでてしまっているというところに、
とても興味をひかれました。
< りんごをみたときにだけでる脳波 >
たぶんわたしにも、知らずにその脳波が
でてしまっているものがあるのでしょう。
たとえば・・・
旬の秋刀魚
いくらのしょうゆ漬け
鮎の塩やき
冷やしたきゅうり
アスパラのさきっぽ
焼茄子
白菜のつけもの
明太子
多すぎるかな・・・。
でも、でるな。これ全部、たぶん。
そしてそれは、食べ物に、かぎらない。
映画だったら、音楽だったら、人だったら。
そして、なぞ図書館ですからね、
本だったら。
そう、「本だったら、これなんです」ってやつを、
きょうはご紹介しようとおもいます。
でもね、だいたいわかってはいたけれど、
いざこれ紹介しようとすると、すごく難しい。
なぜって、
「りんご脳波」がでちゃうような本というのは、
どうも、へんな作用が働くようです。
話したいのに話したくない。
みんなそうではないのかなあ?
私は、あんまりにもすきなものの話は苦手です。
ふつうにすきなものの話は、
息を吸いすぎてしびれてしまうくらい
べらべらとよくしゃべるのだけれども。
たとえば、わたしのりんご脳波に該当する本の話を、
だれかが、たまたまはじめたとする。
するとわたしは、いてもたってもいられない気持ちになってしまうのです。
これはもう、たまにとかではなく、十中八九。
そわそわしながら、
はやくその話がおわらないかなあと思っている。
「その本知ってる?」ときかれたら、
「うん。知ってる」としかいえない。
うん、知ってるもんな。
「いいよねえ」といわれると、「うん。いいよね」
そうだ、すごくいい。
そして、
もし仮に、がんばって、「わたし、それ、すごくすきなんだ」
と言ってみたとして、
「へえ、どうして?」などときかれてしまったら・・・
走って逃げる。
わけがわからないよね。
なにも逃げなくてもねえ。
なんの気なしにきいた方はびっくりだ。
でも、そういうこころもち。
そういう本に対してはね。
ということで、さんざんいいわけをしておいて、
その本に登場するおんなのこのことだけを、
ちょろっと紹介して、逃げさせていただきます。
それでは、また!
ごきげんよう。
「モモ」
ミヒャエル・エンデ作 岩波書店 1,700円
そのおんなのこは、モモという名前です。
タイトルが「モモ」で、その子の名前が「モモ」なのだから、
主人公です。
都会の外れの荒廃した円形劇場跡に、
ある日、浮浪児がすみつきました。
そのこは、もじゃもじゃのあたまをして、
つぎはぎだらけのだぶだぶのシャツを、
そでを折り返して着ていました。
これが、モモ。
そして突然ですけど、
そのおんなのこはふしぎなちからをもっていました。
といっても、それは、空を飛ぶとか、
魔法がつかえるといったような、特別なことではありません。
小さなモモにできたこと、
それは、相手の話をきくことでした。